学会紹介
広島体育学会の歩み
はじめに
現在では「広島体育学会」と称している(社)日本体育学会の旧広島支部(以下では「広島支部」と称す)は、昭和25年の日本体育学会発足と同時に結成されている。広島支部を兼ねる「広島体育学会」が誕生したのは昭和57年5月であり、以後は(1)研究発表例会の開催、(2)特別企画の実施、(3)「広島体育学研究」の刊行、(4)ニュースの発行、という4つの事業を継続的に実施している。 本稿では、特に、昭和45年から昭和47年の間に焦点を当てて、上述のような広島支部のあり方が方向付けられた経緯を述べることにしたい。
1.「学会支部のあり方」の議論
昭和25年に広島支部が発足した後の約20年間の支部活動については、文書が保存されておらず、その詳細は不明である。僅かに、「広島支部は昭和30年にはすでに53名の会員を持っていたが、昭和44年3月の会員は51名である」、あるいは「昭和43年5月、48名であった会員」という記述が見られるだけである。
恐らく昭和44年に広島工業大学で開催された第20回学会大会が契機であったと思われるが、その前年の昭和43年5月に開催された広島支部総会の議事録に、昭和「37年1月以降のブランクについて質疑応答、意見の交換」と記載されている。その後、学会大会開催一年後の昭和45年6月に開催された「昭和45年度 日本体育学会広島支部大会」では、「学会支部のあり方」というテーマでシンポジウムが開催されている。シンポジストの一人である鶴岡英一氏は、「学会支部のあり方」として次の3つの「提案」を行っている。「①日本体育学会会員=支部会員という現行規定を改め、独自の組織を作る。②地域の体育研究のセンター的役割を目標とする。③具体的には、定例研究会、講演会等を積極的に実施する」。同年8月に開催された第1回理事会では、具体的な事業として「定例研究会の開催、講演会・研究懇談会の開催、支部紀要の刊行、支部ニュースの発行、中国地区大会開催への働きかけ」が決定されている。
2.「定例研究会」と『広島体育学研究』
鶴岡氏の提案を受けて理事会で決定された事業の内「定例研究会」は、昭和46年9月から毎月開催されていたが、昭和47年5月の「第9回定例研究会」以後は隔月に開催された。しかし、昭和47年8月の研究発表例会以後は、年に1回という現在の形になったようである。
支部の活動を伝える「支部ニュース」は「広島大学教養部」の鶴岡英一氏の尽力によって、昭和45年9月1日の第1号より昭和47年5月1日の第14号まで発行されている。その後は、広島体育学会が発足した昭和57年から「ひろしま」(広島体育学会ニュース)に、平成13年の第39号からは「NEWSLETTER ひろしま」と名称変更して現在に至っている。
支部紀要に関しては、「支部ニュース」第12号(1971年12月1日)における「理事会報告」において、誌名を「広島体育学研究」とし、毎年1回の発行を決定したことが掲載されている。この紀要は1971年(昭和46年)10月1日に第1号が刊行され、2008年(平成20)で34巻を数えている。
参考資料
- 昭和45年度 日本体育学会広島支部大会抄録
- 「支部ニュース」、No.1(1970.9)~No.14(1972.5)。「ひろしま」(広島体育学会ニュース)、No.1 (1972)~No.38(2000)。「NEWSLETTER ひろしま」、No.39(2001)~。
- 「広島体育学研究」、第1号(1971)~
(広島体育学会元会長 楠戸一彦「広島支部の歩み」日本体育学会60周年記念誌より)
令和5・6年度役員及び事務局担当
役 員
会長 | 東川 安雄 |
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理事長 | 長谷川 博 |
理事 | 武田 守弘 |
橋本 晃啓 | |
上田 毅 | |
黒坂 志穂 | |
齊藤 一彦 | |
出口 達也 | |
長谷川 博 | |
山西 正記 | |
阿部 直紀 | |
三宅 理子 | |
監事 | 大後戸 一樹 |
森木 吾郎 |
各委員会
編集委員 | 黒坂 志穂(委員長) |
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上田 毅 | |
橋本 晃啓 | |
企画担当委員 | 齊藤 一彦(委員長) |
武田 守弘 | |
阿部 直紀 | |
進矢 正宏 | |
奨励賞選考委員 | 長谷川 博(委員長) |
出口 達也 | |
山西 正記 | |
三宅 理子 |
事務局
事務局長 | 進矢 正宏 |
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庶務担当 | 上田 毅 |
会計担当 | 緒形 ひとみ |